金曜, 21 9月 2012 03:37

カザフの歴史と騎馬競技

バヤンウルギーのカザフ人

カザフ民族はいわずとしれた、遊牧民族です。元朝秘史(モンゴル秘史)に出てくるナイマンやケレイトは、今のカザフ人の祖先にあたります。非常に古い歴史を持った民族なのです。チンギスハーンの長男ジョチの5男シバンの子孫にあたるジャニベクとケレイの二人がカザフ・ハン国を建国したことがカザフという名称が使われた最初であると言われています。

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カザフ民族とは、北方アジア・中央アジア地域の遊牧民族としては由緒正しき大民族なのです。様々な歴史、ソビエト、清国、モンゴル人民共和国、中華人民共和国に翻弄された結果、現在では、カザフスタン、モンゴル国、ロシア共和国、中華人民共和国に分かれて暮らすようになっています。いいえ、本当を言えば、分かれて暮らさざるえなくされてしまったというほうが正しいのです。

1470年にカザフ・ハン国を建国した後、1500年代前半には、現在のカザフスタンの領域の殆どを支配するに至りました。
その後、カザフ草原の西部、中部、東部でそれぞれ集団を形成し、それぞれが小ジュズ、中ジュズ、大ジュズと呼ばれるようになります。

1600-1700年代初頭のあいだ、カザフ・ハン国はモンゴル民族のジュンガル帝国と抗争を繰り返します。

しかし、ロシアの侵出が進み始め、1730-1740年代に小ジュズと中ジュズはロシア帰属を決定します。これをきらったアバクケレイを先頭に、大ジュズの一部の人々は現在の中国イグル自治区の地域、アルタイ山脈南麓へと移動をはじめました。

1800年代に入ってからは清国によって圧政が強まり、抵抗運動が繰り広げられるようになり、クブリシュとジルクシャに率いられた500世帯のカザフ人たちは、ふたたびそこを離れ、現在のモンゴル国バヤンウルギー地域、アルタイ山脈北麓へと移動して住み着いたのです。

その後、1863年-1877年にはヤクブ ベクの乱が起き、それが清国によって制圧され、1865年にはロシアによってカザフスタンに残された大ジュズもまた、併合されてしまいます。

モンゴル国(当時、モンゴル人民共和国)に移動したカザフ人たちの生活も決して楽なモノではなく、ここでも、様々な悲劇が繰り広げられました(このことについては、あまり語られることがありません。)しかし、バヤンウルギーのカザフ人たちは、2度の大移動を余儀なくされるという苦難を経験、乗り越えて、今、平安を勝ち取ってきたという誇りがあるのです。


カザフの騎馬競技

ククブル: 額を打たれて絶命したヤギを馬上で二人が奪い合う競技。地面に置かれたヤギを馬上から最初に拾い上げた方が、自分の好きなようにヤギをつかんでから、相手につかませる。後は、両者、馬を操りながら、相手からヤギを奪い取ったなら勝ちとなる。カザフ人だけでなく、アフガニスタンではパシュトゥーン人の間でブスカルと言われて行われている。
大きなヤギを馬上から持ち上げるだけでも大変な上に、両手でしっかりとヤギをつかみ、かつ、馬から落ちないようにしなければならないなど、非常に高度な乗馬技術と、体力、そして、度胸が必要な競技。

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テンゲイルゥ: 地面に置かれたコインを馬上から拾い上げる競技。テンゲとはカザフスタンの通貨単位をいい、ティエンがコインを意味するカザフ語であるため、ティエンイルゥ(イルゥは拾うなどを意味する)が正しいという説もある。
等間隔に置かれたコインを拾い上げて拾い上げた個数の多い者が勝ち残る。継いで、コインを置く間隔を狭め、同様に競技を行い、最後に残った者が勝者となる。なお、拾うときに馬を止めてはいけないし、落馬したらもちろん失格になる。

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クズコアル: これは本来競技というものではなかったようだ(いまなお、あまりはっきりしない) 。現在では、男女ペアで馬を並べて、出来るだけ早く、駆け抜ける。女性は男性にムチを打ち、男性はそれをおもしろおかしく避けながら、しかして、馬2頭が離れてしまわないようにして走り抜ける。そのスピード、馬上での仕草のおかしさなどが評価される。

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文責:NPO法人しゃがぁ 理事長 西村 幹也